2013年5月17日金曜日

1883 ピエール・ジャネ『所有権の基礎』- P. Janet, le fondement du droit de prioriété

 フロイトと並び精神療法の祖として称されるピエール・ジャネが、そのキャリアを医師ではなく、哲学者として開始したというこは知られている。1879年、フランス高等師範学校に入学(同世代にはエミール・デュルケーム、アンリ・ベルクソンがいる)、その後82年に哲学教授試験に合格すると、彼はリセの教師としてルアーブルに赴任した。この土地で彼は、魅力的なヒステリー患者レオニーと、彼女に施されていた催眠療法とに出会い、こうして19世紀末のあの賑やかしい“無意識の発見”の構築現場へ足を踏み入れていくこととなる。
 ところで、このようなよく知られた精神療法史のひとつの歩みが開始される少し前に、ジャネがルアーブルで行った最初の学問的仕事がある。1883年2月10日土曜日、フランス教育連盟Ligue française de l'enseignementの会員の前で為されたと思しき彼の講演は、その主題として「所有権の基礎」を選んでいる。心理学者としてのジャネというイメージから振り返れば、少し思いがけない主題でもあろう。当時、パリからやってきた新米哲学教師に対して、このような主題を語ることがまず求められたということだろうか。それとも、ピエールを学問の道に引き入れたクーザン派の哲学者、叔父ポール・ジャネの影響をそこに認めるべきだろうか。いろいろと思いをめぐらせてみることができるが、いずれにせよ、そこにはジャネが初めて人前で語った彼自身の思想があるに違いない。

 では彼の思う「所有権の基礎」とはどのようなものか、簡単に紹介したい。

 彼はまず所有権の歴史的発展について述べている。第一に、所有権というものが存在しない原始的段階がある。第二の司牧的段階において所有権の萌芽が芽生え、次の農業的段階にいたると共同所有権が現れる。この後に個別化の発達の段階が現れ、そこで初めて個人的所有、および相続的所有が現れるという。彼は、この所有権の歴史的発展の上に、もうひとつの発展、開墾技術の発展を重ねる。間歇的耕作から産業的耕作へと進む進歩は、土地の個人所有によって促されたとするのである。
 かくして、ジャネは歴史的展開を、「産業、公共の富、個人所有権の平行した進歩」として見る。すなわち所有権の発展とは、何よりも人間の労働の必然性と関連した事実なのである。例えば彼がジャワ島やロシアに残る原始共産制を引き合いに出しながら述べるように、土地を所有しないことは、その不便さによって生産性自体を阻害し、ついにはこの共産制を「窮乏の共同体」にしてしまうものなのだ(p. 9)。
 一方でジャネは、私的所有を、もはや共産制を支えることのできるような共同体が不可能となった近代社会の必然とも捉えている。かつての共同体的、家族的な連帯のうちでは、個々人の運命は固定されており、他人ともそれほど異ならなかった。しかし、今では個人は「自分のコップ」で水を飲みたがる。そのような時代にはエゴイズムが共産体制の邪魔をするだろう。「 『俺が何もしなくても社会がたいして損をするじゃなし、ほんの千分の一の損にすぎまい。ちっぽけな悪malだが、俺にとってはたいした得bienだ』。残念ながら、それは社会にとって大きな悪である。というのも、誰しもが同じ理屈で動き、それぞれが他人に寄り掛かり、全体のおこぼれに預かろうとすることになれば、そのときこの全体はもはや存在しないのだから」(p. 10.)。こうした不具合を解消しようと労働を強制してみても無駄で、イニシアチブが欠如している限りは進歩も見込めない、とジャネは言う。ところが反対に、ジャネによれば、私的所有は労働、自由、進歩をもたらす。所有権こそ共同のものでなくとも、所有権の良い結果は共同である。それゆえ「真の政治は、各人のエゴイズムを万人の利益に供させねばならない」(p. 12)。
 かくしてジャネは、まずは事実確認として、個人主義化した社会において、できるだけ多くの人間を養うために所有権が必要不可欠であると主張する。それは「人間生命の条件」、「社会的必要性」 、「社会的事実」である(p. 14-5)。

 しかし「事実問題」と「権利問題」の区分に基づきながら、ジャネは、新たな問い、所有権は公正かという問いを立てる。所有権を基礎付けることは、いわゆる早い者勝ちということでしかない。この占有は「力」と「運」の帰結でしかない。所有の「権利」が、個人があるものを享受したり、罰を受けたりすることに関しての理解可能なつながりであるとすれば、まさしく「運」とは、そのようなつながりが欠けていることではないのか、とジャネは言う。そこには確かに矛盾がある。「運」によって儲けたひとをいまさら責めることはできない。かといって納得することもできない。しかし個人間で戦争をおっぱじめるというのでなければ、ひとはこの運の不平等を泣く泣く受け入れるほかない。さらには、財産相続のように自分の労働の対価によらぬ仕方で儲けることがある一方で、自分の責任ではない病の遺伝が赤子に降りかかるということすらある。「運は、容易に消し去ることのできるような敵ではない」(p. 21)。
 だがジャネにとって当時の社会は、この「運」の役割をそれなりに相殺している。そこに彼は二つの要因を認めている。ひとつは「知性」、つまり科学の進歩であり、もうひとつが「制度」である。「運が正義の敵ならば、科学は運の敵である」とジャネは言う(p. 24)。ここで興味深いことは、例としてジャネが保険を引き合いに出していることであろう。つまりどのような事故にたまたま襲われたとしても、今日それは保険によって返済され、不幸自体は最小限で済むというのだ。かくして「人間の知性は、不公正な窮乏の数を制限し、条件の平等を増大させようとする」(p. 24)。それに加えて「制度」によって、所有権を少数のひとびとに無際限に集中させることを防ぐことができる。ジャネはこれについて、(17)89年以来の税制や教育無料化に関する制度のことをわれわれに思い出させている。
 まとめるとジャネの見解は以下のようになろう。第一に、所有権とは、人間労働の要請に応えるための人間の発明であり、創造である。その基礎は、その有用性であり、大量生産と進歩を要求する社会成員にとってのその必要性にある。第二に、所有権はさらに良いものとすることができる。所有権そのものが正当ではなく運の要素に振り回されるとしても、将来には可能な限りこの運を消し去り、過去の運の効果さえも制限することができるだろう。最後にジャネは、ルソーの不平等起源論をひっくり返しながら、こう結論する。「自然の手から生まれた人間は、美しさ、力、知性、財産において根本的に不平等なのだ。運命は、秩序も理性もなしに、ある者をひいきし、別の者を打ち据えて楽しんでいるのだから。しかし今、知識や資源がもっと拡大するなら、たとえどれほど頻繁に一国の不幸、個人の不幸が他の全てに降りかかったとしても、また世界のうちに正義や慈善がどれほどわずかであっても、あらゆる良いことが文明へと戻ってくる」(p. 27)。

 古い共同体の時代から脱した近代人のために、知性と制度を通じて運命の足かせを取り外してやる助けをすること。ここにはジャネの科学的啓蒙主義、進歩主義的一貫性が確認できるとともに、臨床家としての彼の職業的使命の原点をも見取ることができるだろう。

 P. Janet, "le fondement du droit de prioriété", Ligue française de l’enseignement, Chateauroux
Imprimerie Typographique de Adrien Gablin, 1883