2013年6月21日金曜日

1908 カール・アブラハム「神経症の心理学における親族婚の位置づけ」

1908年11月9日――スイス、ブルクヘルツリから居を移したベルリンで新たに開業したばかりのカール・アブラハムは、『ベルリン精神医学・神経疾患協会』の会合で初の発表を行う。前年にブルクヘルツリの同僚ブロイラー、ユングらとともにウィーンのフロイトとの交流を開始し、いまや精神分析の熱心な支持者となっていた彼は、ここベルリンで、独り、「精神分析運動」ドイツ前線の戦いを始めたのだ。並み居るオールドスクールの神経学者たちの前でフロイト学説を論じたこの日の発表は、まさしくその嚆矢であった。そしてそれが引き出したのは、ジョーンズの伝記からも知られているように、やがてボイコットの呼びかけにまで長じるような激しい拒絶と憤激であった。

(――と、精神分析運動“正史”にとって1908年11月9日はそのような日付であろう。フロイト以来、精神分析の歴史とは「運動史」であり、「戦いの歴史」である。そこでは「支配的な精神医学のうちで不遇を強いられてきたフロイトとその精神分析」が、そして「それに真っ向より挑み、(少なくともE.ジョーンズの生きた時代くらいまでは)いくらかの勝利と呼べる成果を手にした精神分析」が描かれてきた。確かに、そこにはいくらかの「現実」が含まれている――といっても、記述されたとおりの事実がそこにあるということでは必ずしもない。むしろ、精神分析が「運動体」であるということ、そして「運動体」であるという事実に内在的なある種の戦略性の問題から精神分析を切り離すことはできないということである。学問的情熱、治療者としての使命、そうしたこととは別に、フロイトの弟子たちを駆り立てた何か、それは精神分析(とその歴史)のもっとも重要な要素のひとつと思われる。)

半ば伝説のうちに組み込まれてきたこの発表は、実のところ、どのようなものだったのか。ここではくだんのアブラハムの発表と、ベルリンの神経学者たちによるそれへの反応を、1909年の『ベルリン臨床週報Berliner klinische Wochenschrift』に掲載された「報告」(S. 272-3)を手がかりに見てみることとする。

アブラハムの発表の主題は、この「報告」が知らせるところによれば、「親族婚と神経症」である。アブラハムはこの発表を、その後、「神経症の心理学における親族婚の位置づけ」という題で、ウィーンとブルクヘルツリの共同編集で刊行された雑誌『精神分析・精神病理研究年報Jahrbuch für psychoanalytische und psychopathologische Forschungen』の第一号(1909)に発表している。「報告」の端的なまとめによれば、問題は、「神経病質家系では固有の精神‐性的性向のために近親結婚Inzuchtが生じる」という命題の検討である。結婚という制度にまつわる実利的根拠や、人種・階級といった社会的条件はいったん宙吊りにしたうえで、アブラハムは、上記命題を、フロイトの「幼児性欲」理論から説明しようと試みる。 すなわち――神経病質的人物の幼年期においては、異性の家族成員(両親のどちらか、あるいは異性の兄弟)に対する異常に強い性的転移が存在する。それは思春期においても失われず、 他家の異性への転移を困難にする。一方、家族成員への好意自体は抑圧されねばならないため、神経病質者は未婚のままに留まるか、血縁者(姪やいとこなど)と結婚することになる。 最後にアブラハムは、このような強いリビドー固着が他の様々な病的状態においても表現されること、したがって上記のような親族婚は、他の神経病質的特徴を示す現象と並べて検討することで見えてくることを述べて発表を終えている。

この発表についての議論は、同じ会合のほかの報告者のまとめの分量と比較しても、とりわけ白熱したことが分かる。最初に口火を切ったのは、当日の議長オッペンハイムであった。ベルリン神経学の大物であり、「外傷神経症」概念の提唱者として名高い彼は、カール・アブラハムとは縁戚関係にあり、ベルリンに独りでやってきたアブラハムを私的にも世話していた。日ごろのやり取りの中でアブラハムとオッペンハイムは既に「親族婚」の問題についてのやり取りを行っていたようで、アブラハムは発表の中で自説の証人としてオッペンハイムを引き合いにだしていたのだが、これに対し、オッペンハイムはまずなによりそれを拒否する。すなわち、「フロイト理論の信奉者である」かのような誤解を断固退けたいと。とはいえ、幼年期の異常な愛着が親族婚においては問題である、という観察そのものが気に入らないわけではない。オッペンハイムは端的に、この愛情が「性的である」という解釈を拒否するのである。この立場の違いについて、アブラハムはオッペンハイムへの応答のなかで認め、1909年の論文では、それにひとつの注を捧げている(Jahrbuch, 1909, S. 111)。

この日のコメンテーターのうち、もっともつれないのはツィーエンであろう。彼は、フロイト理論は端的に誤りであるとし、さらには「ナンセンス」であると言い切る。また他の発言者(プラッツ)も、フロイト理論が唱える、「幼年期の精神生活におけるセクシュアリティの大きな意義」を問題視し、さらに、フロイト学派のひとびとが彼らの学説を詩人や童話に応用する乱暴な仕方を批判する(ここでは、アブラハムによるF.C.マイヤーの扱いと並び、ブルクヘルツリの助手のひとりリクリンの民間童話解釈が槍玉に挙げられる)。

以上のような反応は、我々が思い描いてきたアンチ精神分析のイメージから大きく外れてはいまい。議論からは、精神分析に対する抵抗の重要な論点のひとつが「幼児性欲」であったことが改めて分かる。さらにここで注目しておきたいのは、アブラハムのこの発表自体も含め、精神分析理論がまさに拡大しようとするときに生じる様々な「応用」の試みに対して、警戒が張られているということである。「汎性欲主義」という批判は、フロイトの理論の中身に向けられたものであると同時に、「性」によりあらゆるものを説明しようと実際に動きだした運動の流れに対するものでもあっただろう。ここで精神分析の「応用」熱という問いをたてるべきかもしれない。それは、一方で運動の動力源でもあろうが、他方で、その貪欲さのあまり、精神分析を荒唐無稽に落とし込んでしまいかねない病とも思える。

さて、精神分析批判に関することとは別に、この発表について興味深いことのひとつは、「親族婚」というテーマそれ自体であろう。アブラハムと同様にこの問題に関心を寄せるオッペンハイムは、親族婚では、たいてい神経病質か精神病質が問題なのだと断言している。さらに彼は、親族婚において生まれる子供に生じるかもしれない害について心配を表明し、親族婚に関する相談を受けるようなときには避妊を勧めていると述べている。また別のコメンテーター(ロートマン)は、親族婚の現象とユダヤ的要素、ただし遺伝的・民族的というよりは、かつての時代に小さな村落に追い込まれたという歴史的・社会的条件との関連について質問している。このテーマが精神医学の会合のテーマとなること自体に、われわれは、家族的親密性についての当時の理解の一端を垣間見ることができそうだ。

"Berliner Gesellscaft für Psychiatrie und Nervenkrankheiten : Sitzung vom 9 November 1908", Berliner klinische Wochenschrift, 1909, S. 272-3.
"Die Stellung der Verwandtenehe in die Psychologie des Neurose", Jahrbuch für psychoanalytische und psychopathologische Forschungen, 1909, S. 110-118.



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